おかげの泉 第九号 昭和四十五年七月七日 朝の御教話より
X御理解 第七十六節 「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか牛馬は 我子が水に落ちて居ても助ける事が出来ぬ人間が見ると助け てやる人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから人の 難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ」
有難いと心得て信心せよ、人間は病気災難の時神に助けてもらう、おかげを受ける神様はおかげを下さる、神様からおかげを頂くその頂くお礼に、人を助けよと言うておられる。人間は神様から助けてもらうのであるから、人の難儀を見て、助ける事が出来る事は、有難い事ではないかと、只人を助けるとだけは言うておられない。
いわゆる神様の御恩を知って、その御恩に報いる為に、人を助けると言う事になる だから、神様の御恩がわからずに、人を助けると言うと、どういう事になるでしょうか、それは本当の助けると言う事の意味にならんように思う。神様の御恩徳、神様からおかげを受けるその喜び、その喜びのしるしと言うか、表現がです、人を助けると言う事になってくる時に、私は純粋な、その人が助かって行く事の働きになって行くと思います。
神様のお働き御恩を知らず、人を例えば助けるといたしますか、それは確かに喜ばれますね。例えばお金がなくなっている人にお金を貸します。又与えます。その人は喜びます。まあ助かった訳です。けれども、今度はその助かった人がだんだんお金持ちになって来ます。そうすると今度は、助けた人が、どのような心の状態になるかと言うと、今頃ちっとばっかり儲けだしたら、と助けた人を、悪口を言う結果になるですねぇ、人間というものは・・・・・。
だから、神様も、人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、これは、必ず病気災難と言うだけじゃありません、あらゆる災難なんです。そういう中から、助けて頂く。そき助けて頂いた有難さが、その喜びが、人を助けるという喜びになったら、どういう事になるでしょうか、そこに、神様への、お礼のしるしが、神様が一番喜で下さる人を助ける、難儀な氏子を助けるという事になるのですから、恩きせがましいとか、条件というものがない。
ですから、これは、まあえてして、そのようなものだと、人を助けてやる、人を助けてやると言うけれども、その助けるという事はね、本当の助かりにつながっていかなければいけない。
それこそ、場合によっては、飼い犬に手を噛まれるというように、助けた事が災いの元になったり、助けた事が、初めの間は、人を助けるという事は、人を喜ばせるという事は、嬉しい事だなあ、有難い事だなあと、こう思うておりますけれども、助けられた方が、言わばそれを忘却していくというか、その事を、だんだん忘れていく事になって参りますとです、いわゆる助けた者が、今度は、助けられた者を、悪口言うようになる。あの人が昔は、家に金を借りに来よった、少し儲け出したら、今度は、どうも横着になったというように、なってくるでしょう。これは、人間という者は、えてして、そういうものなんです、だから、助けたが、助けたになっていない事がわかる。
そこで、私は、本当の人を助けるという事は、ここにもおっしゃっておられますように、神から、助けられる、そのお礼が、神様の一番お喜び頂けれる御用。人助けの御用。昔から、誰が何と言うても、神様は、人のお供えが、一番喜ばれる、いわゆるお導きですねぇ。人をお供えするのが、一番喜ばれる。それは何故かと言うと、その人が信心するようになると、その人が、だんだん助かってくるからです。その事を神様は喜ばれる。
私は、ここのところを今日は、人を助けると言う、例えばここにもありますが、溺れておる者を見て助けてやる。それもやはり、助けるですけれども、それが本当の助ける事になっていくおかげを頂くという事はです、その時に、袖すり合わすも多少の縁といったような事で、助けられる訳ですけれども、それではなくて、神様のおかげを知り、神様から助けられた有難いというものが、助けるという事になる。いわゆる神恩報謝の心が、人を助けるという働きになる。
そこには、いわゆる無条件のもの、それが尊いと思うですねぇ。だから、本当に神様におかげを頂いておるという事をです、実感しなければならん、その為にもやはり神様のおかげを頂かねばならない。ところがね、只、おかげ、おかげと言うて、そのおかげを頂いたから、神様のおかげと思うておるけれども、そのおかげと思うておるその心が、人を助ける働きになっていかない場合が沢山ある。
今日、私、御祈念中に、ふき、と言うお野菜がありますが、あれがいっぱい生えているところを頂きます。ふき、と言うのを富貴ともじって考えて下さい。富貴というのは、繁昌というお知らせの時に頂きます。只、信心して、お願いをして、だんだんおかげを頂いていったというのもありますし、富貴繁昌していく人もあります。今日私が皆さんに、言うておる事はね、いつか、「妙賀栄える富貴繁昌」と頂いた事がある。富貴繁昌のおかげを頂くには、どうでもね、その妙賀というものが、おかげの受けものとなっての、おかげでなけれはならない。
私は、この信心の妙賀の妙というものに触れる、その喜びが、受けものとなって、富貴繁昌のおかげを頂くと・・・・・。
只、信心しよって、だんだん商売が繁昌していくという人は沢山ありますよ、毎日熱心にお参りをして、お取次を頂いてお願いをしとるという人は、沢山あります。
けれども、信心によって、その妙賀に触れていかない人は信心がわかっていない。 ですから、信心して、おかげを頂いて、だんだん繁昌するですね、繁昌するけれども、それでは何故いけないかと言うとね、人ガ助かる事の働きにつながっていかないからです。私は、今日御祈念中に実感させて頂いた事は、神様の思いと、私共の思いの、余りにもかけ離れておる事に驚きます。大低神心であり、親切であり、真心であるように、言うたり、思うたりしているけれども、神様の思いと、余りにもかけ離れておる事に、私は今日改めて驚いた。神様の思いは、そうでありましたかと、・・・ それは、神様の思いに及びもつかない事は当たり前だけれども、けれどもそんなら私共は、神様の心がわかり、神様の心に添い奉る生き方、今日も、どうぞ一日、あなたのお心に適う一日でありますように、と言うて願うておるのですから、願うておる以上は、やはり、神様の心がわかって、神様の心に添うていかなければならないけれど・・・・そのかけ離れておる事に驚く。
例えば私共が右と思うておる、それが本当の事のように思うているけれども、神様は左ぞとおっしゃって下さる場合がある。右と左程にかけ離れておる訳です。
ですから、この辺のところを、もう本当にいわゆる信心の妙賀をもってね、賀びの妙をもって、致していきません事には、ならん事を痛感致します。
なる程、教祖様が、これで済んだとは思いませんと、生身をもっている人間凡夫の事でございますというふうにおっしゃっておられます。人間凡夫の事で、どこにお粗末、御無礼があるやらわからん、というような姿勢がね必要ですねぇ。だから・・・ そして、わが心が、神様の思いとだんだん近づいていく、神様が思いよんなさるような事が自分の心の中にも思えてくるようになる、それが信心が育っていく事でありそれがいよいよ妙賀、いわゆる富貴繁昌の元を作っていくのです、妙賀栄える富貴繁昌。ですから、本当にこの喜びね、賀びの妙というものに、触れさせて頂きながらのおかげでないとですね、人を助ける事の働きという事が、本当の意味に於いてなされないのです。貯っていけばいく程、かえって、欲がつのっていく事にすらなります。 ですから、どうでもやっぱり、信心の賀びというものを、身につけさせて頂いて、その賀びが、その妙賀が、富貴繁昌につながっていく。そうした時に初めてですね、今日ここにある、人間が病気災難の時、神に助けてもらう、簡単にあっさりと、この通りに、頂いていいですねぇ、けれどもこれを、少し深めて頂きますと、これは、病気災難というだけではない、本当に、神様から助けられた、賀び、その賀びが、人を又助けなければおかんというような心の状態が、出来てきて、そして、それが人を助ける働きという事になってくると、神様におかげを頂いておるその賀びが、おかげを頂いている、その神様への御恩返しが、人を助けると言う事になる、そういう純粋な心で人を助ける事になるのですから、その人が助かって行かん事はない。ですから、条件がない。自分がお金を持っているから、あの人を助けてやろうという意味の浅いものではない。おかげを頂いて、お金を持っておるからそれをです、神様からのお授かりもの、神様からの御物として・・・・・。
神様のおかげを頂いて、こうやって頂いておるのですから、その。神様への御礼のしるしに、それによって人を助けようという事、これには条件がないでしょうが。
非常に難しい事ですよね。けれども、私はそこのところがわかりませんとですね、只その妙賀をぬきにして、富貴だけの繁昌のおかげを頂いたのでは、ほんとに人を助ける事の働きになって来ないと言う事です。
それこそ、私は、千人の中の一人、万人の中の一人を、言わば目指せという程に、今日は難しい事を、言ってる訳です。
金光教の信心を頂いておかげを受けるという人は、もう数限りない程あります。
二代金光様がある時、御大祭の終わった後に、ある先生が沢山御大祭にお参りがあっておりますという事をね、お祝い申し上げた時に、四神様(二代金光様の御神名)がおっしゃった。「さあなあ、この中に真の人間が何人るか」とおっしゃった。
皆んな金光様々と、御本部参拝しとる。だから、皆んな、ひとかどの信心でごさいます、という人達ばかりが集まっているのだけれどもね、さあ、この中に、何人真の信心をしておる人があろうかと。だから私は、真の信心をして、真のおかげを受けるという事はです、信心の喜び、いわゆる妙賀です。その妙賀がね、富貴繁昌につながっていくというおかげ、そういう信心が私は真の信心だと思う。
ですから、本当にまあ、言うならば、千人の中に一人あるか、万人の中に一人あるかわからんという程しの信心を、私共は目指すとこう言う訳です。
一日も早くおかげを頂いきたい、頂きたいじゃなくて、一日も早う、その信心の賀びに触れたい、妙賀に触れたいという事にならなければいけないという事がわかります。その妙賀に触れて、妙賀を受けものとして、富貴繁昌のおかげを頂いたらです、ここにありますように、神に助けてもらうのであるから。神様から、おかげを頂くのであるからそのお礼に人を助けよと・・・・・そういう事でなければ私は、本当の助けるとか、助かるという事にはならないと思うのです。無条件、言うならば・・・・無条件というだけでもない、おかげを頂いておるお礼のしるしに人を助ける。だからそれから先は、無条件になる。相手が有難いと思うが思うまいが・・・・その後、どうなろうが、その事は問題ではない、そういう純粋度の高い、心の状態をもってしなければ、本当に人を助けるという事は出来ない。
今迄にこの七十六節は、随分いろいろに頂いて参りましたがねぇ、例えば自分が助からんでおいて、人を助ける事は出来ん、自分が泳ぎを知らなければ、溺れておる者でも、助ける事は出来ない。それこそ、助けに行きよったら、自分も溺れてしまうというふうに、頂いております。
だから、その自分が助かっておらなければという事が、非常に浅い意味合いに於いてから、説かれてきたようですねぇ。今日は、そこのところを自分が助かっておるという事は、自分が信心の喜びでいっぱいである。言わば信心の喜びの、お徳で自分がおかげを受けておるという実感、助けられておるという実感、そこにはね、自ずと、この有難いおかげを受けておる事に、何とかして、神様に、お返しをしなければ相すまんという心が、自ずと湧いてくる。そういう感謝の心をもって、人を助けるという事なんですから、なる程、千人の中に一人、万人の中に一人という程に、難しい事であろうと思います。けれども、私共がやっぱり、焦点をね、そこに置きませんと、私共の助かり具合が悪いです。
だんだん助かって行くに従って、人間が、言わば先日からの御理解じゃないけれども、頭が高うなる、少し儲け出して、旦那様々と言われると、本当に信心のおかげでおかげを頂いておるにもかかわらず、自分が働いたから儲けだしたというふうな考え方になりかねない。それが人間なんです。
だから、そういう助かり方をしたんでは、言わば純粋ではないですから、人が本当の意味に於いて助かるといった事にはなってこない。そこで例えば妙賀を土台にするところの、富貴繁昌、いわゆる妙賀栄える富貴繁昌という事を、よおく、今日は改めて頂きたい。妙賀栄える富貴繁昌。そこにはもう本当に、妙賀栄える富貴繁昌のその向こうには神恩報謝の心がいっぱい人を助けなければおられない、神様がその事を一番喜んで下さるとするなら、そこに、無条件の奉仕と言うか、人が本当の意味で助かる事の働きがそこからなされてくる。
只おかげを頂くというそれでは、本当の人を助けるという事にはならない。そこでいわゆる妙賀なんです。
もう、十七、八年位も前久留米の光橋先生がおられる時分あちらで大祭を仕える為に参りましたら、先生の若い時のお友達の絵描きさんが丁度来ておりましてね、私といろいろお話させて頂いておる時に、今日、先生、あなたから頂いたお話が妙賀というお話じゃった。今日、実は私がね、みょうがの絵を持って来とりますから、先生、もろうて下さいと言うてから、私に下さった。
これは英彦山で十三年振りにしか咲かないという茗荷の花でございます。まっ赤な茗荷です、それを私が英彦山にお参りした時にです、それを丁度、茗荷のまっ赤の花を見たら、これは、十三年々毎に咲く不思議な花である事を聞いた。だから、その場で写生してきました、ですから、今日先生から頂いたお話が妙賀というお話じゃったから、私がここにもっておる茗荷をもらって下さいとこう言われる。
それは、そんなら頂きましょうと言うてから、もう反故紙のようなしわだらけのに書いてありましたけれど、それを表装にやりました。だから、その表装して来たのに私が讃を書いた「打ち取るはむつかし、されど妙賀哉」という句を書かせて頂いた。 私共がだんだん、信心させて頂くようになって、自分がこれを改めなければ、これがあったんでは本当の信心が出来ん、真の人を目指して、こんなもんがあったんじゃ真の人とは言えない、これじゃおかげを受けられん。といったような事がだんだんはっきりわかってくる。だから、それは確かに、それを討ち取ってしまうという事は、大変難しい事なんだ、やっぱり、・・・・何十年間一緒に育って来とるとですからねぇ。例えばお酒を頂いて、自分も困るし、人も困るという、酒ぐせの悪い人があるといたしましょうか、自分はこんな事じゃ本当におかげ頂ききらん、とまあ発心したところからです、本気でそんなら、酒を止めようという事はね、やはり大変難しい事なんです。その人にとっては・・・・その酒を打ち切って了うという事は・・・・
けれどもね、けれどもあの賀びの妙が頂けるならという事になる。打ち切るは、大変難しい事ですけれども、信心の喜びの妙というものは、それにもまして、有難い尊いものだという事なんです。
そこでそんなら、例えば今、ずっと申して参りましたようにです、その妙賀を、まず頂くという事は、まず改まりからという事が言えますよ。これはね、改まるという事が、神様が喜で下さるという事から生まれてくる喜びというものもあるけれどもねそれが討ち取れたという、自分の心から湧いてくる喜びです。それに打ち勝つ事が出来たという喜びなんです。これは、もう本当に、心から、難しいところを、ようも、そこのところを改まる事が出来たと言うて、神様も喜んで下さる。
自分の自己の中から生まれてくる喜びと、神様の喜びがひとつになって、いわゆる妙賀になる、そういういわゆる妙境です。
それに、おかげが言わば与えられる。只我情我欲、お願いをして、おかげ頂いたという。自分の我情我欲を充たしていってのおかげでありましたらね、それはやはり、不純なのですから、それをよし人に貸してやってもです、それは、本当の助かりに決してならんです。妙賀を土台にしたもの、妙賀という受けものをもって頂くところのおかげ、そのおかげをもって、人を助ける事の働きがなされるならです、それこそが本当の意味に於いての、人が助かる働きになる、勿論自分自身としては、条件はない神様におかげを頂いておるお礼のしるしに、人を助けるのであるから、そういう事になりましょうが。けれどもやはり、難しいけれどもね、されど、妙賀哉であります。 その本当のひとつ妙賀を目ざして、妙賀を、求めての信心、そこにはね、富貴繁昌は、それこそ、言わずもながであります。そこから、自ずと神恩報謝の心も、人が助かる事の意味に於いての篤い祈りも、そこから出来てくる。そういうところから、助かる働きになったものでなくては本当の助かりにならない。
今日はね、ここは教祖様がおっしゃっておられる、人が助かるという事のですね、本質とでも申しましょうか、本当の意味に於いての助かりを今日は皆さんに聞いて頂いた。どうぞひとつ、そういうところを目ざす事は、ある意味に於いては、千人に一人、万人に一人という程しの、大変な事かもしれません。けれどもね、やはり、目ざすところをそこに置いて、そこに焦点を置いての、信心をさせて頂いたら、尊い信心の喜びがだんだん、頂けてくるようになると思うですね。
どうぞ。